屈辱を屈辱で終わらせない力
もし、私に力があるとしたら、屈辱を屈辱で終わらせない力だと思う。
その力は、たとえ、何年もかかっても実現する。
かかった年数が長ければ長いほど、すごい力を発する。
その屈辱は、必ず、前の人のしたことを超えて、
もっと偉大なことするようになる。
前の人も以前の私を超えているが、私は、その人のしてきたことを更に超える。
それを実現する時はもうそんなことはどっちでもよくなる。
成功は結果にあらず、
プロセスに中にある。
プロセスがいくら苦しくとも、
成功をつかんだ時には、そのプロセスはすべてこれからの持続するための動機となる。
ガソリンとなる。原動力となる。
そのつかんだものの貴重さがわかるから、
本当にそれを実現するための努力を惜しもうとは思わないのだ。
どんなに失敗したようにしか思えなくても、どんなに誰かが自分の成功を望んでなくても、それは成功のための足かせには一切ならないというのが、
私の今回の経験での結論だ。
あのすごい口達者な人達でさえ、
あれだけ私の悪口を言っていたあの人達でさえ、
足かせにはならなかったんだ。
たったひとつ、あるとしたら、それは私の中にある躊躇。遠慮だけだ。
後、一人では無理ということだった。
主人と共に、誰かと共に、
歩んでいく道だった。
二人三脚で。
必ず、イエスは私を起こしてくれる。
倒れた私に手を差し伸べてくれる。
でも、私の一番の喜びは、
イエスに習うことなんだろう。
愛されたように、大切にされたように、
誰かを助けることが最大の喜びなんだろう。
それこそが、
屈辱を屈辱で終わらない最大の理由。
自分が一番その苦しみを知っているから・・・。
たとえ、サタンを退けても、
私は、それゆえ落とされても、
決してそこで命は終わらないことを知っているから。
イエスと共に復活するから。
それが私の決して揺るがない信仰。