心の荷物

日々の日常に感じたことをただ綴ります

いじめについて共に考える講演会を聞いて

いじめ問題の解決に向けて自死遺族とともに考える

~すべての子どもたちへ 生まれてきてくれてありがとう~

 

というテーマのもと、6/30に商工会議所で篠原宏明さんの講演会が

行われた。

 

息子さんを自殺でなくしておられた。

その日が自分の誕生日と重なったため、

気になり、仕事をその時間は休んで聞きに行った。

 

NHKの番組でも放映され、

そのダイジェスト版を見させていただいたので、

いじめている様子を具体的に見て、じ

自分も昔、こんな形ではないにしろ、

同じようないじめを受けたこと、

そして、そのせいで人を信じられなくなったことを思い出した。

 

今の私はその頃の私とは違う視点を持っているので、

その頃の私はそのまま屈辱的になってうらみの気持ちを抱いていたのを

自分の癒しのために、

再度いじめている側からの視点で見つめなおした。

 

なぜ、この子たちは四人がかりでパンツを下ろしたりなんかしたのか・・・。

 

この子たちはいったいいじめている友達に対して、

何を求めていたのか・・・。

 

優位性を求めていたのか。

この人より自分は強いんだ、優位なんだという感覚。

そして、慰め、刺激、連帯、遊び、勇気をもらえるなど。

 

これらを得るために、誰かを犠牲にしてもいいという価値観。

 

される方は、嫌でたまらなくて、屈辱的で、恥ずかしくて、

怖くて、どんなにか惨めな気持ちにさせられているのに。

 

 

いじめた方は自分を

悪いと思っていないようで、

別の女の子と仲良くなって

私にしたようなことはしていないだろうなあと

思ったら、本当につらかった。

 

自殺したいと何度も思った。

 

そんなつらい経験はできたら

したくないものだ。

この経験があるからこそ、

私はある意味、守られてきたこともあると思う。

 

でも、それよりもマイナス面の方がやっぱり大きかったかな。

人を信じられなくなったし、

男の人への警戒心は人一倍強いし・・・。

 

宏明さんの息子さんのように、いじめっ子に対する報復心はあった。

私の場合、1.2年の頃のことなので、

自分を愛してくれる男性にその矛先は向かってしまった。

 

そして、そんなことをした人が悪いという風に当然世間は見る。

なぜ、そんなことをしたのかには人は注目しない。

 

いじめの循環を断ち切ることは難しい。

でも最終的にはいじめられた人が復讐するのではなく、

神が復讐するという形になる。

 

いじめた人はいつまでも弱いままではないからだ。

いや、何もしなければやっぱり弱いままかもしれない。

でも、私は思う。

 

そんな人たちから身を引き、

そんな人たちの価値観にひるまない、

ブロックする力を得たり、

これまでは新たに自分の意志でことを起こすことに

罪悪感を持っていたのが、

チャレンジしてみてたくさん応援していただけるようになったら

自分で物事を決める自分の感覚に自信が持てるようになるので

自分からアクションを起こすようになる。

 

いじめっこもいつまでも強い立場ばかりではないのだ。

 

いじめっこから逃げ出すということもしたことがある。

 

そんな時も、何もないということはなく、

むしろ、そうしたことでたくさんチャンスにも恵まれたりした。

 

いじめっこも実は弱い人間なのだ。

今ではそのことを知っている。

だから、私は責めることよりも、自分の生きる新たな道を見つけ、

そのいじめっ子のことも許せるくらいのおおらかさや自信を

付けていきたいと思う。

 

優位性を保ちたいと思っていた人たちは、

むしろ立場が逆転したことを悟り、

そこでやっと反省させらせる。

 

場合によってはかたくなになる人もいた。

 

優位性のために、連帯感を持ちたいがために、

誰かを排除するのは実は弱い証拠だ。

 

私もそうだと思う。

 

自分だって同じことをしているのだろうと思う。

 

そう思うと、いじめといじめられている側は思っていても

いじめている側は

いじめという感覚ではなかったということが多々ある。

 

この人をいじめるためではなくて、

自分達でまとまりたいから、

連帯したいから、

この人は協調性がないからと

人を排除するというやり方で

自分達がこの集団を守っていると自負している人たちが大勢いる。

 

私は、そんな人たちの気持ちを理解しようと思う。

そして、自分が今、排除されてきた現実をあらためて認識でき、

それをつらいと思ってきたことも、認めて受け入れようと思う。

 

そこから逃げ出したいと思うこと、

別のサークルと関わりたいことも

認めようと思う。

 

自分や誰かを悪者にするよりも、

希望を持ち、明日を信じて、期待しながら

動けるようになりたいと思う。

 

 

 

 

今日は眠いです。

あんなに目覚めていたのに、

また急にモードが変わりました。

 

教会に行ったことがきっかけのようです。

 

やっぱりちょっとしんどくて、主人をあてにせざるを得なくなりました。

 

自力で藤井寺に行く元気はなかったです。

 

帰り買い物によったけれど、ここでもなかなか主人が来なくて、

しんどくなりました。

 

おなかもすくし・・・。

 

ミサの時にも隣にすわったせいか、

なんだか、帰ってから、急にあつかましくなりました。

 

びっくりするくらいの違いです。

いやになりました。

 

洗濯物取り込んだり、たたんだり、

干したりなどの家事の手伝いを土日してくれていますが、

 

急に何で俺一人でせなあかんことになってん。

 

とか、昔の事とか言い出す始末。

 

料理は分担しないし、失業しているから、

文句言わずにすればいいのに、

 

一人前に困る困ると主張してくる。

子供たちと分担すればいいじゃないと思うが、

みんなで分担という割にはなにも話し合おうとはしない。

 

今日はやたらしんどくなり、

しょっちゅう横になっていました。

 

体重はいよいよ50キロきりました。

 

何年ぶりでしょうね。

50キロきるなんて。

 

だから食後なのにそうだということは

やはりわずか一週間で2キロも減ったのですね。

 

ラスクをちょっと食べると体質変わったのかしら。

 

それとも、昨日の疲れかしら。

 

昨日もハードで今日も教会に行っているのに、

やさしい言葉はなにもありません。

 

まあ、自主的にスポーツなどはいっているので、

仕方ありませんかね。

 

期待はしていないけれど、

文句言ったり、けなすことはないと思うのですが。

 

主人も本当に当てにならない方です。

 

仕事していないのに、あつかましくもそこまで言うとは。

何で俺ひとりの仕事やねんとかね。

ただ愛されたいと願うことはやめよう。

 

つい、楽しいと愛されたいとばかり考えて、

愛することを忘れてしまう。

 

でも、大事なのはどうだったかな。

 

愛するためにチームに入ったのなら、

愛することにまた戻ればいい。

 

愛してくれるから、つい愛されることばかり考えるようになる。

 

そんなこと、気にしなくっていい。

 

彼は彼女は十分活躍できる人なのだ。

 

自分なんていなくてもね。

 

私はどうやったら愛せるかを考えて一生懸命生きていればいい。

 

愛されるために行くのではなく、愛するために行くのだ。

そこは微妙なところだ。

 

すなわち、もう少し言葉を変えると、愛するために家の用事をして

行かないという選択も本当はあるのだ。

 

でも健康のために今は家のことを遇えて優先していないだけなのだ。

 

健康のために休んでいたのと同様、今は健康になるために、

運動をするようになっていった。

 

そしてやっていないと、どこの筋肉が弱まるかも分かってきた。

 

だから一週間とか二週間とかとんだらきついのか・・・。

 

ということは自主トレとかもちゃんとやってなあかんということだ。

 

 

ママさんフットサルのチームができました。

子供のサッカーチームの保護者のメンバーと、小学生の女子とで構成されています。

 

初めて今日朝から練習に参加させていただきました。

とても楽しいです。

基礎からボールのけり方、とめ方などから、

教えていただきます。

 

ドリブルの練習やちょっとボールを転がすだけで、

息がきれます。

 

いい運動になりました。

 

暑くてお茶もたくさん飲みました。

でも、少しでも自分もサッカーすると、

人のプレーのすごさや体の使い方など、

とてもよく分かるようになってきます。

 

サッカー観戦もおかげさまであまり退屈せずに

見れるようになりました。

 

でも、しているのと、見るのとではまったく違うので、

やはり、できるようになるためには

練習するしかなさそうです。

 

これから、ますます暑くなりますが、

頑張ります。

誰も知らない私の心の傷

アキレス腱の傷はそのうち治る。

 

癒える。

 

 

いまではもう運動もできる。

あれから一年と数ヶ月。

 

でも、心の傷のほうはそうはいかない。

 

18年前のことでも、

 

かんたんに状況が同じになると、

フラッシュバックを起こす。

 

あの人がいるから大丈夫と思って行ったところに

 

あの人はいなかった。

 

今日は来れなかった。

 

その次もその次もまたその次もこれないらしい・・・。

 

 

そのかわりに、私が来ると知った別の人が来てしまった。

 

そこで私は昔の屈辱と苦しみをまた体験する。

 

でも今はあのころと違う。

 

私が本当に信じれる人が今はいてる。

それが不幸中の幸いだった。

 

その人がただ、今日また別の集まりで会えて私のことに気づいてくれて、

 

ただ私と心通わせてくれてたから、私は助かった。

 

もうあの時のように心理的に自殺せずに済む。

 

生きていけるのは、あの人がくれたひそかな

愛のおかげ。

 

あの無視に対して人に絶望せずにすむのは

あの人が私を支えてくれたおかげ。

久しぶりの投稿です。

ブログをあちらこちらに開設してしまい、

分散させてしまいました。

 

当初はどのブログが使いやすいか知るためでしたが、

はじめのうちはなかなか比較できませんでした。

 

いまでは、このブログのここはいいなあとか、

読みやすい、書きやすいなど、

 

いろいろ分かってきました。

でも、一度開設してしまうと、

なかなか消去したり、引越したり

するのは大変で、そのまま放置状態です。

 

そして、ここはここでこんな読者がいて、

こんな文を紹介していて、

面白いなぁという

 

それぞれの面白みも存在することも事実です。

 

今は交換日記にもはまっていて、

そのためにけっこう時間をさいてしまうこともあります。

 

何か゛自分にとってベストかを

絶えず探しつつも、

一つに絞れたら絞った方が、

後々、効率的なような気がします。

 

どこに何を書いたかわからなくなるのは

あまりよくないです。

皆一つに、国際協力のミサ

朝はお天気大丈夫でした。
8時過ぎに先に電車で行って、
玉造教会のお御堂に向かいました。
ガレージではたくさんのテントを張る準備を
既にスタッフの方々沢山来られて、
取り組まれていました。

9時過ぎにお御堂に入り、
オルガンの練習を始めました。

松浦司教様は早々に来て、
声をかけてくださいました。

司教様直々のアドバイスや提案をしてくださり、早速取り入れ、その箇所を変更しました。

一緒に演奏する方もいらしたので、コードや繰り返しの回数などの変更箇所を伝えたのち、
司教様がリーダーシップとってくださり、
曲を合わせました。

高槻教会の鈴木さんも、
伴奏の楽譜を持って来てくださいました。
司教様の提案で
オルガンでもコード弾くことになったので、
複雑なコードだったので楽譜があって助かりました。

ミサでは大船渡の方も来られて参加してくださり、一言メッセージもいただきました。

その内容はとても心にグッとくるものがありました。
一部書きます。
神様の言葉に従って生きる、そのことを人生の目的と心得ています。しかしヘブライ語でダーワーとは言葉と出来事という意味があり、神様は出来事を通じて私達に語っておられる、と信じています。
世の中にある多くの問題を私たちに任せてくださった大きな課題なのです。ヨーガス!引き受けた。
私たちも神様の信頼に答え、
輝かしい幸せの明日を築くために頑張っていきたいと思います。

とのことでした。
心のこもった力強い宣言をいただき、
励まされました。

逆境の時、失望感に襲われた時、
私も、発言者の菅原さんのように、
堂々と引き受けた!
と神様の信頼に答えて、
希望を持って生きていきたい。
そう思いました。

はるのこ神父様のお話もとても良かったです。
皆一つになる。大きな津波でいろんな壁がみな流されて、皆一つになる。
憩いの家。オアシス。誰でも来てもいい。
そこで休んでもいい。大きなことをすることは私達無いんですけれど、側にいること。

いい言葉です。癒されます。

そしてこの後、鈴木 恵さんが震災の方のために作ってくださった「とどけ!あいとひかり」
が、歌われました。ピアノ伴奏でかっこいいイントロとエンディングもついて、歌詞も曲もとっても良かったです。(^_^)

みんなが心一つに、良いものを出しあって、
素晴らしいミサになりました。
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